楽園なのに地獄?映画『ペリリュー』で知る「忘れられた戦い」

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映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』が、話題になっていますね。

戦争のお話しですが、このタイトルに少し違和感を覚えませんか?

楽園と呼ばれるほど、美しい南国の島ペリリュー。

それなのに、「ゲルニカ(非人道的な悲劇の象徴)」のような、壮絶な戦いが繰り広げられてしまいます。

映画の舞台となったペリリュー島で、一体何が起こったのか。

実はわたしの住む茨城県も、この戦いに深い関わりがありました。

今ある平和がどれほど貴重なものなのか、改めて一緒に考えてみませんか。

漫画家志望の兵士が体験した「楽園の地獄」

映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の舞台は、太平洋戦争末期のペリリュー島。

主人公は、漫画家を目指す兵士・田丸です。

彼が島で任されたのは、亡くなった戦友の最期の姿を遺族に書き記す「功績係(こうせきがかり)」でした。

美しい楽園が、狂気に満ちた戦場へ変わっていく様子を、上等兵・吉敷とともに見つめることになります。

物語のテーマは、戦いの「勝敗」ではありません。

極限の世界で生き抜いた、若者たちの壮絶な戦い。

そして、そこで生まれた強い友情。

歴史的な事実に沿って、彼らが懸命に生きたリアルな姿が描かれています。

3日で終わるはずが…日本軍が変えた「戦いの常識」

ペリリュー島の戦いは、昭和19年9月15日から約2ヶ月半にわたって繰り広げられました。

アメリカ軍は当初、日本軍の守備隊(約1万人)を軽視し、3~4日で制圧できると考えていたとか。

文鳥
文鳥

アメリカ軍は4万人も
いたんだって!

でも、予想は大きく裏切られます。

理由は、それまで多かった日本軍の「玉砕戦法(バンザイ突撃)」が禁止されたから。

文鳥
文鳥

敵に向かって突撃する戦い方だね

まるる
まるる

生きて帰ることを
前提としなかった…

指揮官たちは、勝ち目がないことを承知の上で、「持久戦」へと方針を大転換。

この持久戦には、明確な目的がありました。

アメリカ軍の次の標的であった
フィリピンへの侵攻を可能な限り遅らせる

ペリリュー島には飛行場があり、もしこれがアメリカ軍に利用されてしまうと、フィリピンへの航空攻撃や物資輸送が簡単にできてしまいます。

そのため、指揮官たちは「一兵でも長く生き残り、アメリカ軍をペリリュー島に足止めする」という重い決断を下しました。

これは、日本軍が戦術を大きく変えた、最初の戦いでした。

この新しい戦術は、後にさらに激戦となる硫黄島の戦いにも引き継がれていきます。

結果、戦いは長期化。

日本軍1万人中、最後まで生き残った兵士は、わずか34人。

一方、アメリカ軍も2300人以上が死亡するという、大きな犠牲を払う戦いとなりました。

洞窟が要塞に!アメリカ軍を最も苦しめた「地下の秘密」

トーチカのイメージイラスト

ペリリュー島の戦いが、特別に激しい戦いとなった最大の要因。

それは、「洞窟陣地」の活用が鍵となりました。

この島はサンゴ礁が隆起してできたため、天然の洞窟がたくさんあったのです。

日本軍はこの洞窟を深く掘り進め、爆撃を受けても壊れない、岩盤のように硬い地下の要塞(トーチカ)を築き上げました。

〈トーチカ〉
敵の攻撃から兵士を守りつつ

銃などで反撃するための防御陣地のこと

兵士たちはトーチカを利用して、アメリカ軍の艦砲射撃や爆撃という圧倒的な火力に耐えながら、抵抗を続けました。

この強固な要塞によって、攻撃は無力化。

アメリカ軍は、洞窟陣地を1つずつ潰していくという、手間と大きな犠牲を伴う戦いを強いられます。

その裏で、日本兵たちも水や食料、弾薬の補給が途絶えてしまい、過酷な状況の中にいました。

それでも彼らは、「時間稼ぎ」という重い任務を遂行したのです。

茨城の若者たちが担った任務:水戸歩兵第二連隊

そして、この苛烈な持久戦を支えた重要な部隊が、「水戸歩兵第二連隊」です。

連隊はパラオ防衛のために派遣され、茨城県をはじめとした、関東地方出身の若者が多く所属していました。

彼らが守ったのは、島の中央にある山地です。

ここが地下要塞の拠点であり、最も厳しい激戦地だったとか。

連隊長の指揮のもと、最後まで抵抗を続けた水戸歩兵第二連隊。

しかし、その犠牲は想像を絶し、兵士の約9割がペリリュー島で命を落としました。

この数字からも、どれほど凄惨な戦いだったかが分かります。

わたしの住む茨城県とも、深い関係にあった「ペリリュー島の戦い」

故郷で帰りを待っていた家族の悲しみは、他人事に思えません。

なぜ語られなかった?「忘れられた戦い」になった理由

これほどの犠牲を払ったのに、ペリリュー島の戦いは、長い間ほとんど語られることがありませんでした。

「忘れられた戦い」と言われるようになったのは、なぜでしょうか?

その理由を探ってみましょう。

1.直後の激戦に埋もれた

ペリリュー島の直後、硫黄島や沖縄といった、本土の運命に直結する、大規模な激戦が起こりました。

そのため、世間の注目はそちらに集まってしまったのです。

2.アメリカ軍の「不都合な真実」

アメリカ軍は、短期間で占領できると見込んでいた小さな島で、予想を遥かに超える大損害を出しました。

アメリカ側からすると、あまり積極的に記録したり語ったりしたくない「失策」の要素が強かったのかもしれませんね。

3.「持久戦」は語りにくい

「玉砕」のような悲劇的な美談ではなく、ペリリュー島の「持久戦」は、地味で過酷な時間稼ぎという戦略。

戦後の日本では、英雄視されにくかったという側面もありました。

生き残った34人の兵士と、今も島に眠る千の想い

ペリリュー島の戦いの大きさと、今を生きる人々に残された課題は、島の状況からも分かります。

2025年現在でも、千を超える日本兵の遺骨が収容されず、手つかずのまま島に眠っているとか。

そして、この過酷な戦いを生き延びた、わずか34人の兵士たち。

終戦からさらに約1年8ヶ月後となる1947年4月まで、戦争が終わったことを知らずに潜伏を続けました。

文鳥
文鳥

戦争はもう終わったのに…

なぜ彼らは、戦争が終わったことに気付かなかったのでしょうか?

それは、兵士たちが完璧に洞窟へ潜伏し、通信手段も指揮系統も失われていたためです。

アメリカ軍が流す終戦情報を、罠や偽情報だと、固く信じ込みました。

「任務を遂行し続ける」ことに、ひたすら忠実であり続けたのですね。

そうした中、廃棄物から終戦の真実を知ります。

日本の元軍人からの説得を経て、1947年4月に最後の集団投降を果たしました。

任務に忠実であったがゆえに、過酷な潜伏生活を送った彼ら。

しかし、その任務を終えたと判断した後は、静かに故郷へ戻る道を選んだのです。

まるる
まるる

日本に帰れて良かった!

故郷に戻った34人の兵士たちは、島での体験を忘れられない、重い記憶として抱えて生きてきました。

戦友を失った悲しみや、極限の孤独と向き合いながらの、本当に辛い道のりだったことでしょう。

兵士たちが背負った記憶や、亡くなった戦友たちとの強い絆。

映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』は、その記憶と絆を、若い世代にもきっと届けてくれるはずです。

まとめ

ペリリュー島で戦った兵士たちが、極限の状況で何を見て、何を思い、戦い続けたのかー

映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』で描かれる人物や風景って、とても可愛らしいんです。

でも、激しい戦闘や傷ついた人々など、凄惨な場面もしっかりと表現されていました。

「可愛らしさ」と「凄惨さ」のギャップが、過去の出来事である戦争の記憶を、身近に感じさせてくれるのかもしれませんね。

この機会に、戦争の歴史に触れて、懸命に生きた人々の記憶を受け止めてみませんか。

わたしの祖父も戦争に行き、銃撃によって片耳を失いました。

今ある平和が当たり前ではないことを、実感するきっかけになったら幸いです。

ちなみに、この映画は大ヒットした同名コミック本が原作です(*’▽’)!

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