映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』が、話題になっていますね。
戦争のお話しですが、このタイトルに少し違和感を覚えませんか?
楽園と呼ばれるほど、美しい南国の島ペリリュー。
それなのに、「ゲルニカ(非人道的な悲劇の象徴)」のような、壮絶な戦いが繰り広げられてしまいます。
映画の舞台となったペリリュー島で、一体何が起こったのか。
実はわたしの住む茨城県も、この戦いに深い関わりがありました。
今ある平和がどれほど貴重なものなのか、改めて一緒に考えてみませんか。
漫画家志望の兵士が体験した「楽園の地獄」
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— 映画『ペリリュー ー楽園のゲルニカー』12.5公開 (@peleliu_movie) November 26, 2025
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映画『 #ペリリュー ―楽園のゲルニカ―』
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映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の舞台は、太平洋戦争末期のペリリュー島。
主人公は、漫画家を目指す兵士・田丸です。
彼が島で任されたのは、亡くなった戦友の最期の姿を遺族に書き記す「功績係(こうせきがかり)」でした。
美しい楽園が、狂気に満ちた戦場へ変わっていく様子を、上等兵・吉敷とともに見つめることになります。
物語のテーマは、戦いの「勝敗」ではありません。
極限の世界で生き抜いた、若者たちの壮絶な戦い。
そして、そこで生まれた強い友情。
歴史的な事実に沿って、彼らが懸命に生きたリアルな姿が描かれています。
3日で終わるはずが…日本軍が変えた「戦いの常識」
ペリリュー島の戦いは、昭和19年9月15日から約2ヶ月半にわたって繰り広げられました。
アメリカ軍は当初、日本軍の守備隊(約1万人)を軽視し、3~4日で制圧できると考えていたとか。

アメリカ軍は4万人も
いたんだって!
でも、予想は大きく裏切られます。
理由は、それまで多かった日本軍の「玉砕戦法(バンザイ突撃)」が禁止されたから。

敵に向かって突撃する戦い方だね

生きて帰ることを
前提としなかった…
指揮官たちは、勝ち目がないことを承知の上で、「持久戦」へと方針を大転換。
この持久戦には、明確な目的がありました。
アメリカ軍の次の標的であった
フィリピンへの侵攻を可能な限り遅らせる
ペリリュー島には飛行場があり、もしこれがアメリカ軍に利用されてしまうと、フィリピンへの航空攻撃や物資輸送が簡単にできてしまいます。
そのため、指揮官たちは「一兵でも長く生き残り、アメリカ軍をペリリュー島に足止めする」という重い決断を下しました。
これは、日本軍が戦術を大きく変えた、最初の戦いでした。
この新しい戦術は、後にさらに激戦となる硫黄島の戦いにも引き継がれていきます。
結果、戦いは長期化。
日本軍1万人中、最後まで生き残った兵士は、わずか34人。
一方、アメリカ軍も2300人以上が死亡するという、大きな犠牲を払う戦いとなりました。
洞窟が要塞に!アメリカ軍を最も苦しめた「地下の秘密」

ペリリュー島の戦いが、特別に激しい戦いとなった最大の要因。
それは、「洞窟陣地」の活用が鍵となりました。
この島はサンゴ礁が隆起してできたため、天然の洞窟がたくさんあったのです。
日本軍はこの洞窟を深く掘り進め、爆撃を受けても壊れない、岩盤のように硬い地下の要塞(トーチカ)を築き上げました。
〈トーチカ〉
敵の攻撃から兵士を守りつつ
銃などで反撃するための防御陣地のこと
兵士たちはトーチカを利用して、アメリカ軍の艦砲射撃や爆撃という圧倒的な火力に耐えながら、抵抗を続けました。
この強固な要塞によって、攻撃は無力化。
アメリカ軍は、洞窟陣地を1つずつ潰していくという、手間と大きな犠牲を伴う戦いを強いられます。
その裏で、日本兵たちも水や食料、弾薬の補給が途絶えてしまい、過酷な状況の中にいました。
それでも彼らは、「時間稼ぎ」という重い任務を遂行したのです。
茨城の若者たちが担った任務:水戸歩兵第二連隊
そして、この苛烈な持久戦を支えた重要な部隊が、「水戸歩兵第二連隊」です。
連隊はパラオ防衛のために派遣され、茨城県をはじめとした、関東地方出身の若者が多く所属していました。
彼らが守ったのは、島の中央にある山地です。
ここが地下要塞の拠点であり、最も厳しい激戦地だったとか。
連隊長の指揮のもと、最後まで抵抗を続けた水戸歩兵第二連隊。
しかし、その犠牲は想像を絶し、兵士の約9割がペリリュー島で命を落としました。
この数字からも、どれほど凄惨な戦いだったかが分かります。
わたしの住む茨城県とも、深い関係にあった「ペリリュー島の戦い」
故郷で帰りを待っていた家族の悲しみは、他人事に思えません。
なぜ語られなかった?「忘れられた戦い」になった理由
これほどの犠牲を払ったのに、ペリリュー島の戦いは、長い間ほとんど語られることがありませんでした。
「忘れられた戦い」と言われるようになったのは、なぜでしょうか?
その理由を探ってみましょう。
1.直後の激戦に埋もれた
ペリリュー島の直後、硫黄島や沖縄といった、本土の運命に直結する、大規模な激戦が起こりました。
そのため、世間の注目はそちらに集まってしまったのです。
2.アメリカ軍の「不都合な真実」
アメリカ軍は、短期間で占領できると見込んでいた小さな島で、予想を遥かに超える大損害を出しました。
アメリカ側からすると、あまり積極的に記録したり語ったりしたくない「失策」の要素が強かったのかもしれませんね。
3.「持久戦」は語りにくい
「玉砕」のような悲劇的な美談ではなく、ペリリュー島の「持久戦」は、地味で過酷な時間稼ぎという戦略。
戦後の日本では、英雄視されにくかったという側面もありました。
生き残った34人の兵士と、今も島に眠る千の想い
ペリリュー島の戦いの大きさと、今を生きる人々に残された課題は、島の状況からも分かります。
2025年現在でも、千を超える日本兵の遺骨が収容されず、手つかずのまま島に眠っているとか。
そして、この過酷な戦いを生き延びた、わずか34人の兵士たち。
終戦からさらに約1年8ヶ月後となる1947年4月まで、戦争が終わったことを知らずに潜伏を続けました。

戦争はもう終わったのに…
なぜ彼らは、戦争が終わったことに気付かなかったのでしょうか?
それは、兵士たちが完璧に洞窟へ潜伏し、通信手段も指揮系統も失われていたためです。
アメリカ軍が流す終戦情報を、罠や偽情報だと、固く信じ込みました。
「任務を遂行し続ける」ことに、ひたすら忠実であり続けたのですね。
そうした中、廃棄物から終戦の真実を知ります。
日本の元軍人からの説得を経て、1947年4月に最後の集団投降を果たしました。
任務に忠実であったがゆえに、過酷な潜伏生活を送った彼ら。
しかし、その任務を終えたと判断した後は、静かに故郷へ戻る道を選んだのです。

日本に帰れて良かった!
故郷に戻った34人の兵士たちは、島での体験を忘れられない、重い記憶として抱えて生きてきました。
戦友を失った悲しみや、極限の孤独と向き合いながらの、本当に辛い道のりだったことでしょう。
兵士たちが背負った記憶や、亡くなった戦友たちとの強い絆。
映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』は、その記憶と絆を、若い世代にもきっと届けてくれるはずです。
まとめ
ペリリュー島で戦った兵士たちが、極限の状況で何を見て、何を思い、戦い続けたのかー
映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』で描かれる人物や風景って、とても可愛らしいんです。
でも、激しい戦闘や傷ついた人々など、凄惨な場面もしっかりと表現されていました。
「可愛らしさ」と「凄惨さ」のギャップが、過去の出来事である戦争の記憶を、身近に感じさせてくれるのかもしれませんね。
この機会に、戦争の歴史に触れて、懸命に生きた人々の記憶を受け止めてみませんか。
わたしの祖父も戦争に行き、銃撃によって片耳を失いました。
今ある平和が当たり前ではないことを、実感するきっかけになったら幸いです。
ちなみに、この映画は大ヒットした同名コミック本が原作です(*’▽’)!

