朝ドラ「あんぱん」やなせたかしの母・柳瀬登喜子の波乱の人生

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朝ドラ「あんぱん」で注目される、やなせたかしの母・柳瀬登喜子。

高知の裕福な家に生まれながら、波乱万丈な人生を送った、彼女の生涯が注目されています。

3度の結婚、息子との別れ、そして『アンパンマン』誕生の陰にあった美しき強さとは?

今回は、ドラマをより深く楽しむための情報を、ご紹介します(*’▽’)!

朝ドラ「あんぱん」やなせたかしの母・柳瀬登喜子とは?

現在放送中の、連続テレビ小説「あんぱん」

『アンパンマン』の作者である、やなせたかしと、その妻・小松暢をモデルに描かれています。

生きる意味さえ見失いかけた苦悩の日々と、それでも夢を忘れなかった夫婦の物語。

幾多の困難を乗り越え、逆転しない正義を形にした『アンパンマン』に辿り着くまでが描かれています。

まるる
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愛と勇気に満ちた物語

モデル役名
やなせたかし柳井嵩(北村匠海)
小松暢朝田のぶ(今田美桜)
柳瀬登喜子柳井登美子(松嶋菜々子)

やなせたかしの少年時代に、大きな影響を与えるひとりとして登場するのは、母・柳瀬登喜子をモデルとした人物です。

「あんぱん」では、柳井登美子として、松嶋菜々子さんが演じています。

史実における母・柳瀬登喜子は、高知県の裕福な家に生まれ、華やかで自由奔放な性格でした。

しかし、その人生は決して順風満帆ではなく、夫との死別から経済的な苦境、息子との別れといった、多くの苦難を経験したそうです。

「あんぱん」では、夫婦の物語はもちろん、母の影響を受けたやなせたかしの原点や、作品に込められた想いも描かれていくでしょう。

柳瀬登喜子の波乱の人生と3度の結婚

1894年(明治27年)1月11日、高知県香美郡在所村の、裕福な地主の家に生まれた、母・柳瀬登喜子。

6人兄弟の次女として育ち、当時としては珍しく高知県立高知第一高等女学校(現・高知県立高知丸の内高等学校)に進学した才女でした。

生年月日1894年1月11日
出身地高知県香美郡在所村
家族構成父、母、兄弟6人(次女)
学歴高知県立
高知第一高等女学校
結婚歴3回
実家大地主

登喜子は、在学中に一度結婚を経験しています。

しかし、その後実家に戻り、やなせたかしの父となる清と、二度目の結婚をしました。

まるる
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清も由緒ある旧家の
出身だったんだって

当時二人の結婚は、地元ではエリート家系の縁組として、注目を集めたそう。

1919年(大正8年)に長男・やなせたかしを、1921年(大正10年)に次男・千尋を出産。

東京で暮らしていた一家でしたが、1923年(大正12年)、清が東京朝日新聞の特派員として上海へ渡りました。

これを機に、登喜子は二人の幼い息子を連れて、故郷の高知に戻ります。

文鳥
文鳥

しかし悲劇が…

翌年の1924年(大正13年)、清は赴任先の中国で32歳の若さで病に倒れ、亡くなってしまったのです。

夫の死後、次男・千尋は生前から約束されていた、伯父・柳瀬寛の養子となりました。

そして登喜子は、長男・たかしを連れて、自身の母親とともに、高知市内の医師宅の離れで新たな生活を始めます。

生活を支えるため、習い事で身につけた生け花や茶の湯の教室を開いて、生計を立てようとしました。

家にいる時間が少なかったのは、こうした事情があったからなのかもしれませんね。

その後、登喜子は三度目の結婚を決めます。

相手は東京に住む官僚で、すでに子供もいたとか。

登喜子は、たかしを伯父・寛に託し、一人東京へと旅立ちました。

文鳥
文鳥

息子を置いていくことが
再婚の条件だったのかな…

真夏の太陽が照りつける道を、白いパラソルを差した母が、一度も振り返らずに歩いていく。

やなせたかしは、その光景を鮮明に覚えているそうです。

「あなたは身体が弱いから、伯父さんのところで治してもらいなさい」
「すぐに迎えにいくからね」

という母の言葉を信じ、弟の千尋と二人で待ち続けました。

伯父に預けられたのを機に、たかしは後免野田組合尋常小学校(現・南国市立後免野田小学校)へと転校。

すでに弟が養子として暮らしている家で、複雑な生活を始めることになったのです。

まるる
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登喜子とはもう会えないの?

登喜子は再婚後、東京都世田谷区大原町に住んでいたようです。

偶然にも、たかしのもう一人の伯父・正周の家から、徒歩わずか5分ほどの距離に、登喜子の住まいがありました。

再婚したことで、母との関係は途絶えてしまったのでしょうか?

文鳥
文鳥

そんなことはなかったみたい

たかしが小学5年生の時と、弟・千尋が京都帝国大学で学んでいた時期に撮られたと思われる、登喜子との写真が残っています。

再婚しても、たまに交流があったのかもしれませんね(*^^*)

華やかで奔放、周囲を惹きつけた柳瀬登喜子の魅力

柳瀬登喜子は、その華やかで奔放な性格で、周囲を惹きつける魅力的な女性でした。

やなせたかしは、母についてこう語っています。

母は華やかな性格の人でした。社交性があり誰とでもすぐに仲良くなっていました。

一方で、子どもたちには礼儀作法や言葉遣いを厳しく教えていたようです。

食事の挨拶をきちんとしないと、ものさしで叩くこともあったとか。

たかしが「絵本を読んで」とせがむと、忙しい登喜子はひらがなの一覧表を作り、自分で読むように教えました。

まるる
まるる

おかげで小学校入学前に読み書きができるようになったとか

こうした厳しい態度の裏には、子どもたちの成長を心から願う、登喜子の深い愛情があったのかもしれませんね。

また、登喜子は新しいものが好きで、流行の先端を行く女性でした。

洋服や化粧品はもちろん、当時珍しかった香水や映画にもいち早く触れ、周囲を驚かせていたとか。

その自由奔放な生き方は、当時の社会において、様々な意見があったようです。

文鳥
文鳥

母親のくせに派手ね!
みたいな悪口も…

それでも登喜子は、周囲の目を気にすることなく、自分の信じる道を自由に生きました。

その強く美しい生き方は、息子・たかしの心に深く刻まれ、後の創作活動に大きな影響を与えたのです。

やなせたかしの作品に刻まれた柳瀬登喜子の生き方

柳瀬登喜子の人生は、息子・やなせたかしの作品に大きな影響を与えました。

幼い頃に母と離れた経験から、複雑な感情を抱いて育ったたかし。

しかし、彼は母を恨むことなく、むしろ感謝していたとか。

その思いは、詩やエッセイに何度も登場する、母の記憶からも読み取れます。

登喜子の強く生きる姿は、たかしに「どんな困難にも立ち向かう勇気」を与えてくれたんですね。

母との別れや、戦争によって昨日までの正義が、正義じゃなくなる現実。

そんな逆転しない正義を形にしたのが『アンパンマン』です。

困っている人がいれば、自分の顔を分け与えてでも助けるアンパンマン。

その姿は、まさに母との別れや、苦難の経験から生まれたと言えるでしょう。

強く生き抜いた登喜子の存在は、たかしにとって心の支えであり、創作意欲の源でもあったのですね。

両親からは「正直な人になりなさい」と言われていたそうです。

その教えを守り、自分の心に嘘をつくことなく、ありのままの思いを作品に込めてきました。

しかし、正直に生きることは決して容易ではなく、時には損をすることもあったといいます。

それでも、両親のこの教えは、最終的に大きなプラスとなり、深く感謝しているそうです。

やなせたかしの作品に込められたメッセージは、両親から受け継いだ『愛と勇気』そのものなのかもしれませんね。

まとめ

朝ドラ「あんぱん」では、母・柳井登美子の登場は、今のところちょっとだけ…(*’▽’)

史実によると、やなせたかしと弟は、母との再会を果たしていました。

まるる
まるる

また登場するかも?

今後の展開に注目したいですね(*’▽’)

文鳥
文鳥

美しい母を見たい

ドラマのモデルとなった、母・柳瀬登喜子の人生は、華やかさと波乱に満ちたものでした。

裕福な家庭に生まれながらも、時代の波に翻弄され、幾多の困難を乗り越えて生きた母。

その強く生きる姿は、息子・やなせたかしの心に深く刻み込まれ『アンパンマン』を生み出すきっかけとなりました。

アンパンマンは、わたしたちがいくつになっても、勇気と生きる力を与えてくれる、国民的ヒーローです(*^^*)

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