朝ドラ「あんぱん」深掘り!日本人初のパン屋・木村安兵衛とあんパン誕生秘話

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朝ドラ「あんぱん」は、アンパンマンの作者・やなせたかしと、その妻・小松暢の激動の人生を描いた物語です。

ドラマのタイトルにもなっている『あんパン』は、日本人で初めてパン屋さんを開いた、木村安兵衛が生み出しました。

今回はあんパンの誕生秘話と、木村安兵衛の諦めない物語をのぞいてみましょう。

茨城の農家から江戸のパン職人へ

茨城県牛久市に生まれた木村安兵衛は、龍ヶ崎市の農家・木村家へ婿入りしました。

そこで経験した、度重なる小貝川の洪水。

その悲惨な光景を目の当たりにするたび、安兵衛は農家の人々の苦しみに心を痛めたのです。

洪水が起きるたびに、田んぼも畑もぐちゃぐちゃになってしまいました。

文鳥
文鳥

一生懸命育てたのに…

まるる
まるる

収穫できないから
生活も苦しい

江戸で再出発

50歳を目前に、安兵衛は家を長男の芳之助に任せ、妻・ぶんたちと共に、江戸へ出て新しい仕事見つけることにします。

現在と違って、この時代の50歳はもう老人。

転職するなんて、とんでもないことでした。

しかもその頃の江戸は、明治維新で江戸幕府が崩壊したため、それまで幕府に仕えていた武士たちは、すぐに仕事を見つけることが難しかったといいます。

そんな中安兵衛は、授産所の事務職に就くことができました。

まるる
まるる

現在でいう職業訓練所みたいな
ところです

文鳥
文鳥

仕事を紹介したり訓練したりする

安兵衛とパンの出会い

安兵衛は、授産所でパンを焼いていた梅吉と出会います。

梅吉は、長崎のオランダ人宅で、コックをしていた経験がありました。

米が主食だった日本人にとって、パンは未知の食べ物ですよね。

しかし安兵衛は、梅吉の焼くパンに将来の可能性を感じ、パン屋を開くことを決意します。

妻・ぶんのへそくりを元手に、安兵衛は横浜で英語を学んでいた次男・英三郎と、梅吉を雇って、パン作りの研究と店の準備を始めました。

そして明治2年3月28日、安兵衛53歳にして芝日陰町(現在の新橋駅の近く)に、日本人初のパン屋『文英堂』をオープンさせます。

店名は、妻「ぶん」と次男「英三郎」の名前から付けられました。

日本人のためのパンを求めて

パンを焼く木村安兵衛のイラスト

安兵衛は、日本人初のパン屋さんをオープンさせます。

売れないパン

当時の日本人に馴染みのないパンは、硬く、酸っぱく感じられて、なかなか売れませんでした。

この頃の東京は、外国と貿易する港がなく、パン作りに必要なイーストが手に入りにくかったのも原因のひとつです。

そのため安兵衛は、イーストの代わりに、ジャガイモや小麦にビール用のホップを混ぜて、パンを膨らませていました。

文鳥
文鳥

だから酸っぱく感じたのかもね

しかも直火で焼いていたため、黒くて硬いパンになってしまいます。

そもそも、お米が主食の日本人には、西洋人向けのパンが口に合わなかったのかもしれませんね。

2度の火災

パン作りに苦戦する中、明治2年12月。

文英堂は、火災により焼失してしまいます。

しかし安兵衛は、すぐに再建を決意。

明治3年には、尾張町(現在の銀座5丁目)に『木村屋』として、再スタートを切ります。

この時に梅吉とは別れ、横浜でパンを作っていた武島勝蔵が、新しく雇われました。

海軍の学生への納品依頼が舞い込むなど、事業は順調に思えた矢先、再び火災に見舞われてしまいます。

明治5年2月26日のことでした。

この頃の東京は火災が多く、木造の家が密集している地域は、あっという間に燃えてしまったそう。

まるる
まるる

銀座と築地のほとんどが燃えたとか

それでも安兵衛は諦めませんでした。

日本人の口に合う
美味しいパンを作りたい

パンを焼くための石窯は無事。

安兵衛は再び立ち上がります(*’▽’)!

ひらめきから誕生! 日本独自の『あんパン』

火事から立ち直り、店を再開した木村安兵衛ですが、思うようにお客さんはきません。

パンで病気が治る?

ある日。

「木村屋のパンを食べると脚気(かっけ)が治る」というウワサが広まり、多くのお客さんが訪れるように。

これは、大学病院に入院していた桂弥一が、ドイツ人医師から勧められたパンのおかげで脚気が治った、という話がきっかけでした。

話を聞いた人が病気を治すために
木村屋へパンを買いにきた

脚気は江戸患ともいわれ、ビタミンB1の不足が原因でかかる病気です。

文鳥
文鳥

白米ばかり食べている人が
多くかかった病気

まるる
まるる

栄養不足になっちゃったんだね

この時代は、脚気の原因が分かっていなかったため、伝染病と思い、患者を隔離することもあったそうです。

店はウワサのおかげで繁盛しました。

しかし、安兵衛が本当に届けたかったのは、脚気の薬ではなく、美味しいパンです。

ひらめいた!あんパン

明治7年、木村屋は銀座の煉瓦街(現在の銀座4丁目)に移転。

ある日、酒まんじゅうを食べていた安兵衛は、パンにあんこを入れてみようと思い立ったのです。

しかし試作を続けても、パンは膨らまず、あんこは飛び出す始末…。

文鳥
文鳥

どうする?

まるる
まるる

またひらめいた!

試行錯誤の末、パンの中にホップではなく、酒まんじゅうにも使用される「酒種酵母」を使用することにしました。

そして、水の質や温度にこだわることで、しっとりと柔らかい『あんパン』が完成。

これこそが、安兵衛が追い求めていた、日本人のためのパンでした。

上品なあんこの甘みと、ほのかな酒種の香りがするあんパンは、瞬く間に人々の間で話題となりました。

天皇も認めた味、そして未来へ

あんパンが売れて繁盛した木村屋

『あんパン』の評判は瞬く間に広がり、店は大繫盛。

そんなある日、幕末の剣豪・山岡鉄舟が木村屋を訪れます。

山岡鉄舟は、江戸末期に幕府と対立していた西郷隆盛を説得するという、明治新政府のキーパーソンでした。

まるる
まるる

江戸城無血開城の立役者だね

明治4年には、少しの間、初代茨城県知事を務めていたこともあったとか。

文鳥
文鳥

安兵衛の義弟の剣の師匠
だったそうよ

木村屋を訪ねた頃は、明治天皇の侍従となっていた山岡鉄舟。

明治天皇が花見にお出かけになる際の、茶菓子を探していました。

そこで、あんパンの献上が提案されたんです。

安兵衛は、最高のあんパンを作り上げるべく、試行錯誤を重ねました。

そして「桜あんぱん」を完成させたのです。

奈良の吉野山から取り寄せた八重桜の塩漬けを添えた、特別なあんパンでした。

明治8年4月4日、東京向島の水戸徳川下屋敷で行われた花見。

その席で献上された桜あんぱんは、明治天皇・皇后両陛下に大変喜ばれたそうです。

明治天皇があんパンを召し上がったという事実は、人々の間で大きな話題となり、木村屋には多くの客が押し寄せるようになりました。

創業から150年以上経った今も、木村屋のあんパンは人々に愛され続けています。

文鳥
文鳥

現在は7代目社長・木村光伯氏が
歴史を繋いでいるよ

洪水に振り回され、二度の火災で店を失いながらも、立ち上がり続けた木村安兵衛。

その姿はわたしたちに、どんな苦境でも諦めない心、乗り越える力を教えてくれました。

木村屋のジャムおじさん:朝ドラのヤムおじさんとの関係は?

朝ドラ「あんぱん」で、あんパンを焼くヤムおじさんは、俳優の阿部サダヲさんが演じています。

ヤムおじさんのモデルはいる?

やなせたかしの史実上では、ヤムおじさんは登場しません。

しかし、モデルとなったのは「アンパンマン」に登場するジャムおじさんではないか、という説があります。

実は、木村安兵衛の息子・儀四郎は、ジャムパンを開発した人です!

もしかしたらヤムおじさんは、ジャムつながりで、儀四郎がモデルかもしれません。

その理由を紐解いてみましょう(*^^*)!

木村儀四郎は放浪していた?

木村屋二代目・英三郎は、明治20年5月9日に36歳という若さで亡くなりました。

その後相次いで、山岡鉄舟、木村安兵衛が亡くなってしまいます。

残されたのは、安兵衛の妻・ぶんと、英三郎の弟・儀四郎の妻である、ゆう。

のちに三代目当主となる儀四郎は、家を出ていて長い間不在となっていました。

木村屋は、もう終わりかと思われた時。

日清戦争の終わった明治28年の春、儀四郎は10年ぶりに銀座の本店に姿を現したのです。

意外なことに、儀四郎は遊ぶために家を出ていたのではありません。

静岡や新潟、金沢などで次々と直営店を開設し、各地であんパンを製造していました。

まるる
まるる

中国や台湾でお店を出したりも

あんパンが全国に広まったのは、こうした儀四郎の裏の活躍もあったのかもしれませんね。

明治30年11月27日、安兵衛の妻・ぶんは、儀四郎に店を託したのを見届けたかのように、この世を去りました。

完成したジャムパン

この頃、日本の陸・海軍省は、軍指定の大規模なビスケット工場の建設を計画していました。

日本軍の食料政策により、戦時食料の研究を始め、その実験にあたったのが、儀四郎たちのつくった東洋製菓です。

東洋製菓は、日本の近代的ビスケット工業の始まりとなりました。

明治33年、東洋製菓で実験を重ねていた儀四郎。

ビスケット生地にジャムを挟んで焼くのを見て、あんの代わりにジャムを使うことを思いつきます。

そして完成したパンを『ジャムパン』として、木村屋で販売しました。

ヤムおじさんはジャムパンを焼くのか?

日本で初めてジャムパンを作ったのは、儀四郎でした。

時代は異なりますが、そういった経緯があると、ヤムおじさんのモデルは木村儀四郎とも考えられますよね。

儀四郎
放浪→
ジャムパン開発→
ジャムおじさん→
ヤムおじさん

文鳥
文鳥

ジャムつながり

家を出て放浪、地方であんパンを焼く。

ヤムおじさんの状況と似ていませんか?

朝ドラ「あんぱん」の中で、ジャムパンを焼きだしたら、確定ですね!

まとめ:諦めない心が繋いだ、美味しい物語

小貝川の洪水、そして二度の火災…。

幾多の困難に見舞われながらも、決して諦めずに、日本人のためのパン作りへ情熱を注いだ木村安兵衛。

彼と、彼を支えた家族や、出会った人々との繋がりが、日本の食文化に革命を起こしました。

朝ドラ「あんぱん」を通して、美味しい「あんパン」が繋いだ物語を、改めて感じてみてはいかがでしょうか(*^^*)

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